あったかい気持ちをありがとう
大好きな漫画の最終巻を読み終わってしまった。
『甘々と稲妻』。妻を亡くした高校教師・犬塚公平と一人娘のつむぎ、そして彼の教え子の飯島小鳥が続けてきた「ごはん会」が、もう見られないなんて寂しすぎる。犬塚親子の2人、そこに小鳥が加わって3人、時には彼らの友人である小鹿しのぶや八木祐介たち…他にもたくさんの人が集まったにぎやかな食卓に、笑顔と涙をたくさんもらってきた。
「誰かと一緒にごはんを食べるしあわせ」に満ちているこの漫画に出会えて、ほんとうによかったと思う。作者が描くつむぎちゃんの姿は、ただかわいいだけじゃなくて、子どもが子どもなりに悩みだとか、悲しみだとか、もやもやだとかを抱えていることを思い出させてくれる。自分もかつて子どもだったはずなのに、うっかり忘れてしまいそうになる、そういうことを。
もちろんわがままを言うこともあるけれど、つむぎちゃんはいつだって一生懸命で、お父さん想いで、まっすぐで、いとおしい。そんなつむぎちゃんを見守り、愛情をたっぷり注ぐ周りの大人たちも、みんな同じようにいとおしい。
毎回発売日を楽しみにして、大事に読みつづけてきた作品なのに、感想がうまく出てこない。どの話にも思い入れがあるし、それぞれ感想があるはずなんだけど!今はただ、あんなに小さかったつむぎちゃんが、まあこんなに大きくなって…というような、親戚のおばさんみたいなことしか言えない。でも、1人ではエプロンの紐をうまく結べなかった子がキッチンに立つようになった、このことに感慨をおぼえずにいられるだろうか。つむぎちゃんがすこやかに育っていく姿を、読者として見守れたことを嬉しく思う。
犬塚家がこれからもずっとずっとしあわせでありますように。おいしいごはんをみんなで作って食べる時間が、いつまでも続きますように。
いつでもしんどいとき助けてくれるのは本
五月病かもしれないしそうじゃないかもしれない。いろいろタイミングが悪い。
自分ってほんとだめだなあと思ったり、もうこれは立ち直れないなあと思ったときには、人によって対処法はいろいろだと思うけれど、私はただただひたすら本を読む。
ご存知の通り食べるのは大好きだけど、落ち込んだときにおいしい料理をつくる気力なんてない。でも外に行って大好きなお店に入る元気もない。というかもったいない。だから食事はかえっていい加減な、ジャンクなものになりがちである。よくない傾向だってわかってはいるけど…
本は良い。顔も死んでる、姿勢もぐにゃぐにゃの状態で読みはじめても、気づいたら没頭してることがほとんど 。読み終わった後にあるのは、心地よい疲労感と、種類はともかく「なんかどうでもよくなってきた」「まあいっか」みたいな気持ち。暴飲暴食の後みたいな、罪悪感はナシ。ただ自分が入り込めないタイプの本だと更に悲惨な状況になるだけなので、まあ一番確実なのは、大好きな作品を読み返すことだと思う。
ということで今再読してるのは北村薫『六の宮の姫君』。主人公である「私」は、卒業論文のテーマ「芥川龍之介」を掘り下げていく中で、彼の作品『六の宮の姫君』にまつわる謎を解き明かしていく。何回読んでもぞくぞくするし、いろいろこみあげてきて泣く。
小説では勿論、読者が観客であり演出家であり、そして役者にもなる。百人の読者がいれば百の劇が生まれるだろう。数式とは違う。小説は人に、同じ解答を与えはしない。
そう信じる。
(p. 202)
一回目読んだときは、小説家…芸術家の業だとか、彼らの哀しさ、孤独にぐぐぐっときて感極まってしまったのだけど、今回グサッと来たのはこの一文。
「私の解答」、あなたなりの解釈、を求められつづけることは苦しいけど、辛いけど、そこにはかけがえのない喜びもある。小説はひとつとして同じ解答を与えないと「そう信じる」こと――学ぶという姿勢を、その喜びを、その価値を、この主人公はいつでも思い出させてくれる。
すぐにはやっぱり立ち直れないけど、さてのろのろと起き上がるか。
結局は食べ旅したいだけ
旅行好きな友だちが台湾はいいぞ~台湾はいいぞ~と繰り返すものだから、私もついつい行きたくなってしまっている。人生で一回も行った事がない。
しかもこんな本を買ってしまったおかげで、日に日に台湾行きたい欲は募るばかり。 著者の台湾愛と食べもの愛が伝わってくるグルメガイドで、写真を見ているだけで口の中の唾が止まらない。食欲も止まらない。小籠包、胡椒餅、魯肉飯、葱油餅、豆花…ああもうたまんない。
でも先日、韓国に行った叔母から色々お土産をもらったり、写真を見せてもらったりして以来、韓国もいいなあ…と思ったりしている。サムゲタン…カンジャンケジャン…サムギョプサル…タッカンマリ…いつでも考えているのは、食べもののことばっかり。
これはおみやげのうちのひとつ、チョコ付きかっぱえびせん。おいしくないわけがないさ!