よむねるたべる

三度の飯と本が好き

贖罪者を赦すのは誰だ

  電車に乗る日はいつでも、カバンの中に本が入っている。でもたまに、カバンを替えた時などにうっかり入れ忘れたり、もう読み終わったのに新しい本に替えるのを忘れていたり、持ってきた本を読む気分じゃなかったりすることがあって、そんな時には電子書籍にお世話になっている。

 とはいえ、私は基本的に紙の本を愛している人間なので、普段はほとんど電子書籍リーダーを使わない。真の読書好きは紙の本で読むべきだ!とか言うつもりはないけど、電子書籍だとどうもうまく入りこめないのだ。単に小さい頃から紙の本を読んできたという習慣のせいだとは思うのだけど、1年前くらいに買った電子書籍リーダーが遠出するときくらいにしか登場しないのが残念。慣れの問題?それともケチって安いの買ったからダメなのかな…。

 まあ、いろいろと思いはするけれど、電子書籍のいちばんの美点は読みたいと思ったときにすぐダウンロードして読めるところにあると思う。この間も、ふと思い立って菊池寛「恩讐の彼方に」を読んだ。

恩讐の彼方に

恩讐の彼方に

 

 菊池寛について知っていたのは、芥川龍之介の友人だったということと、代表作の題名くらい…あとは中学か高校時代に『無名作家の日記』を読んだ程度で、つまり何も知らなかった。でも最近、本屋をぶらついているとなぜかやたらと『真珠夫人』が目に入ってきて、妙に気になる作家だったんです。
 それで一週間くらい前だろうか、電車に乗っている時突然そのことを思い出して、手持ちの本も読み終わっていたからすぐに青空文庫で検索し、タイトルに惹かれてこの短編小説を読むことにした。

 物語の中では、許されざる罪を重ねつづけた男の贖罪の日々が描かれる。主人公・市九郎は、主人の愛妾であるお弓とひそかに通じ、そのことが知られたために主人殺しという大罪を犯す。その後の逃亡生活の中、金のためお弓とともに何度となく殺人を繰り返した市九郎だが、ある時悔恨の念にかられると、すべてを捨て身一つで逃げ去る。それから彼は出家を果たして、多くの人びとを救い過去の罪を償うために心を砕くようになる…

 この小説を読みながらふと、大今良時『聲の形』を読んだ時の気持ちを思い出した。

聲の形 コミック 全7巻完結セット (週刊少年マガジンKC)

聲の形 コミック 全7巻完結セット (週刊少年マガジンKC)

 

 こちらも、 (程度が違うとはいえ) 罪を背負った者の贖罪の物語である。小学校時代に耳の聞こえない少女をいじめ、転校にまで追いやった主人公・石田。彼はその後自分の人生に絶望したことによって、罪を清算してから自殺することを決意し、かつていじめていた相手――西宮に会いに行く。
 この作品の序盤には、主人公のこんな独白がある。

……ああ……………だめだ……まだ……………足りてない
足りてない 足りてない 足りてない
罰が… 死ぬための資格が…

(2巻, 15頁)

 ここには、「恩讐の彼方に」の中で市九郎が「身に重なれる罪は、空よりも高く、積む善行は土地よりも低き」と嘆く場面に通じるものがあるように感じられる。どちらの作品の主人公も、自分の犯した罪の重さに気づき、それが赦されることではないと知りながらも必死に何かを取り戻そうとしている点で共通しているのだ。

 今回「恩讐の彼方に」を読んで、『聲の形』でなんとなく引っかかっていたことがほんの少しだけ解けかけてきたような気がする。
 どちらの作品も、犯した罪を心から悔い改め償おうとする者は果たして赦されるのか、ということがひとつのテーマになっている。これに対し、どんな善行を積み重ねようと過去は取り消せない、だから彼らは決して赦されはしない、という者も多くいるだろう。
 この考え方が一般的であることは、『聲の形』の中で石田に対し、自分のやったことを忘れてはならない、と責めつづけるかつての同級生の姿が繰り返し描かれていることからもうかがえる。そしてこれが私の中でわだかまりとして残っていたのだ。
 もちろんその考えは、広い意味では正しいものだと思う。それでも、たぶん、それを決めることができるのは私たちではない。彼らを赦すのも赦さないのも、世間ではなく、市九郎に対しての実之助、石田に対しての西宮一家、つまり「彼らによって奪われた者たち」にしかできないことであるはずだ。

 私たちは日常の中でも、何か大きな間違いをしでかし、それを反省して行動を改めた人に対し「だからといってやったことが許されるわけではない」、ひどい場合は「あんなことをしたんだから何をいわれても文句はいえないよね」という考えにまで至ってしまうことがある。
 道から外れてしまった後に戻ってこようと努める誰かを、多くの人間が寄ってたかって責めたて、そのことを咎める者はいない…というのは、たとえ正しさに基づいていたのだとしても、とても恐ろしいことなんじゃないか。
 もちろん世の中には救いようのない、反吐の出るような人間がたくさんいることも知っている。そしてそういう人間が改心したとして、はいそうですかとならない気持ちも当然わかる。だから難しいのだけど…

 この「恩讐の彼方に」のラストは、そんな葛藤をやすやすと越えた「赦し」「救い」を描いている。罪を償おうとあがいた市九郎だけではなく、憎しみの向こう側へとたどり着いた実之助さえもが、大きな何かに赦され、救われたように感じる。
 もしかしたら誰かをほんとうの意味で「赦す」ことができるのは、世間でもなく、奪われた者ですらなく、それらを超えたもっと大きな存在だけなのかもしれないなあ。作品の短さにも関わらず、とても、とても味わい深い印象を残す作品だった。