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三度の飯と本が好き

本と芸術について考えたこと

「本は、誰のために、どう在るべきなのか?」
 “本”という部分は、“音楽”に変えてもいいし、“絵画”に変えてもいい。“映画”でも“伝統芸能”でもいい。この問いは、あらゆる芸術にかかわる人にとっての永遠の課題だ。『本を守ろうとする猫の話』で描かれているのも、この問いと、それに対する答えである。直接問われているのは「人は本とどう向き合うべきか?」だけど、それでもやっぱり、根底にあるものは同じだ。
 この難しい問いに対し、主人公は物語の終盤で答えを出している。その答えは、とても綺麗で美しい。だけど、ただそれだけだ。決して、現実に生きる私たちへの答えにはなってはくれない。

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 物語は、主人公・夏木林太郎が祖父を亡くしたことからはじまる。舞台は街の片隅にある小さな古書店・夏木書店――林太郎の祖父が営んでいた古書店である。祖父がもういないという事実を前に、夏木書店で物思いにふける林太郎。そんな彼の前に、突然人語をしゃべるトラネコが現れる。
 突然現れたトラネコは、これまた突然、林太郎に「本を脅かす者たちから本を救い出してほしい」という。どういうことなのか理解する余裕も、選択の余地もないまま、林太郎は“迷宮”から本を救い出す旅に出ることになる――
 ちなみに、本を救い出す旅なんていうと大げさだけど、この物語はいわゆる冒険譚ではない。迷宮はぜんぶで3つあり、それぞれに主がいる。林太郎に託されたのは、対話を通して彼らを納得させ、そして本を解放させることだ。

 個人的には、第2、第3の迷宮での対話がアツかった。迷宮の主たちが目指しているものを間違ってるとは言いきれない、むしろ信念としては正しい、というところがなんとも…。
 第2の迷宮の主は「切りきざむ者」。彼が目指しているのは、あらゆる難解な傑作を、“切りきざんで”単純にして、誰にでも読めるお手軽な作品に作り変えること。第3の迷宮の主は「売りさばく者」で、たとえ価値がなくても、社会が求める本をたくさん作り、たくさん売ることをしている。表面的にはそういうことだ。だけど、この2人に共通することが1つある。それはなにか?それぞれの主張を聞けば、すぐにわかる。

読まれない物語は消えていく。僕はそれを惜しんで生きながらえさせるために、少しだけ手をくわえる。[中略] …そうすれば、失われていく物語がその足跡を現代にとどめることができるとともに、短い時間で手軽に傑作に触れたいと願う人々の期待にも応えることができる。(第二の迷宮「切りきざむ者」p. 88)

今の時代はね、難解な本は、難解であるというだけで、もはや書としての価値を失うのだよ。誰もが、気軽に、愉快に、流行りのクリスマスソングをまとめてダウンロードするかのように傑作を読みたがる。楽しく、速く、たくさんの読書を。そういう時代の要請に答えなければ、傑作は生き残っていくことはできない。(第二の迷宮「切りきざむ者」p.89-90)

真理も倫理も哲理も、誰も興味がないんです。みんな生きることにくたびれていて、ただただ刺激と癒しだけを求めているんです。そんな社会で本が生き残るためには、本そのものが姿を変えていくしかないんです。敢えて言いましょう。売れることがすべてなのだと。どんな傑作でも、売れなければ消えるんですよ。(第三の迷宮「売りさばく者」p.142)

 そう、彼らは「本を生き残らせたい」と心から望んでいる。しかも、とても切実に。それだからこそ、本の形を歪めてしまうことまでした。行動は間違っているし、許されないことだ。それは確かだ。だけど……彼らに対して林太郎が出した答えに、私は納得することができない。
 林太郎が作中で何度も主張しているとおり、夏木書店は、特別な場所だ。ベストセラーも流行の本もない。時代を超えてきた名作だけが並ぶ。林太郎の祖父の特別なこだわりが込められた、特別な場所だ。かけがえのない場所だ。だけどきっと、そこに足を運んだのは、常連だけ…すでに本の価値を知っている人たちだけだっただろう。それはそれでかまわない。それこそが夏木書店なのだから。でも、その姿は理想ではあるけれど、正解ではない。つまり、すべての人に求めるべき姿勢ではない。

 限られた人たちのためだけの芸術は、ゆっくりと死んでいく。それが、今までいろんな芸術に触れて、いろんな人に出会って、いろんなことを学ばせてもらった私なりの答えだ。だから、迷宮の主たちに強く共感してしまった。そして反面、林太郎の主張に少しの反感を抱いてしまった。彼の祖父の姿勢は、たしかに気高い。だけど、「わかる人にだけわかってもらえればいい」って、ある意味とても傲慢なのでは?

 だって、人びとに、本を…芸術を愛する心がないわけではない。ただ、そのためのきっかけがないだけだ。でも、誰もが受け入れらるように、作品そのものの形を歪めてしまうのは間違っている。だとすれば、目指すべきは、価値のある本を切り刻むことでもなく、価値のない本を売りさばくことでもない。でも、本と一緒に心中をすることでもない。価値のある本が売れる世界を育むことなのではないかと思う。それはきっと、長い長い時間がかかる、いちばん険しい道のりだ。だけど、価値あるものを生かすためのいちばんの近道でもあるはず。

 話は少し変わるけど――そう考えると、「刀剣乱舞」とか「文豪とアルケミスト」とかって、想像以上に伝統や芸術の復興に貢献しているのかもしれない。現に、刀剣も文学も盛り上がりを見せてますものね。もちろん、一時的な現象だろうし、ほとんどがミーハー的な関心で動いているんだろう、とは思う。だけど、その中のほんの一握りだとしても、ほんとうにそれを愛するようになってくれる人が出てくるかもしれない。かなり少ない数だとしても、ゼロではないはずだ。各文学館が「文アルコラボ」をしているのも頷ける。きっかけは何でもいいはずなのだ。芸術がどんなに強い力を持っていても、それに気づく人がいなければ意味はないのだから。

本を守ろうとする猫の話

本を守ろうとする猫の話