よむねるたべる

三度の飯と本が好き

いつでもしんどいとき助けてくれるのは本

 五月病かもしれないしそうじゃないかもしれない。いろいろタイミングが悪い。

 自分ってほんとだめだなあと思ったり、もうこれは立ち直れないなあと思ったときには、人によって対処法はいろいろだと思うけれど、私はただただひたすら本を読む。
 ご存知の通り食べるのは大好きだけど、落ち込んだときにおいしい料理をつくる気力なんてない。でも外に行って大好きなお店に入る元気もない。というかもったいない。だから食事はかえっていい加減な、ジャンクなものになりがちである。よくない傾向だってわかってはいるけど…

 本は良い。顔も死んでる、姿勢もぐにゃぐにゃの状態で読みはじめても、気づいたら没頭してることがほとんど 。読み終わった後にあるのは、心地よい疲労感と、種類はともかく「なんかどうでもよくなってきた」「まあいっか」みたいな気持ち。暴飲暴食の後みたいな、罪悪感はナシ。ただ自分が入り込めないタイプの本だと更に悲惨な状況になるだけなので、まあ一番確実なのは、大好きな作品を読み返すことだと思う。

 ということで今再読してるのは北村薫『六の宮の姫君』。主人公である「私」は、卒業論文のテーマ「芥川龍之介」を掘り下げていく中で、彼の作品『六の宮の姫君』にまつわる謎を解き明かしていく。何回読んでもぞくぞくするし、いろいろこみあげてきて泣く。

六の宮の姫君 (創元推理文庫)

六の宮の姫君 (創元推理文庫)

 

小説では勿論、読者が観客であり演出家であり、そして役者にもなる。百人の読者がいれば百の劇が生まれるだろう。数式とは違う。小説は人に、同じ解答を与えはしない。
そう信じる。
(p. 202)

 一回目読んだときは、小説家…芸術家の業だとか、彼らの哀しさ、孤独にぐぐぐっときて感極まってしまったのだけど、今回グサッと来たのはこの一文。

 「私の解答」、あなたなりの解釈、を求められつづけることは苦しいけど、辛いけど、そこにはかけがえのない喜びもある。小説はひとつとして同じ解答を与えないと「そう信じる」こと――学ぶという姿勢を、その喜びを、その価値を、この主人公はいつでも思い出させてくれる。

 すぐにはやっぱり立ち直れないけど、さてのろのろと起き上がるか。