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三度の飯と本が好き

2018年もたくさん読んで食べるぞ

 あけましておめでとうございます。去年このブログに足を運んでくださった方、スターを送ってくださった方、読者になってくださった方…どなたもありがとうございます。色々な方にたいへんお世話になりました。今年もどうぞよろしくお願いします。

 さて、新年一回目の投稿と新年のあいさつがなんでこんなに遅くなったかというと。実は私、大晦日から風邪を引いてずっとゴホゴホやっていたのです。しかも元日にはお腹を壊した。それでパソコンを立ち上げてキーボードをパチパチする気力なんぞ根こそぎ奪われてしまったというわけ。
 普段まったく体調を崩さないのに、さあ今回の年末年始はたくさん食べて読むぞ、と思っていたところにこの仕打ち。しかも風邪のほうはまだ治っていない、咳止まらん。この時期の風邪はしぶといらしいぞ。皆さんもお気をつけて。

 …というわけで、かなり遅くなってしまったけれど新年の抱負について書いておく。2018年の私の目標は「喋りを上達させる」である。
 私は昔から、人前で喋ることが苦手で、スピーチやプレゼンなんてものは大嫌いだった。できる限りやりたくなかったし、そういう場は避けてきた。…のだけど、ここ数年、そうはいってられない状況におかれてしまってから、まあ及第点レベルにはなってきた。そうなると出てくるのが欲。「どうせなら面白い、魅力的な話ができるようになりたい」という欲。とはいっても、根が引っ込み思案で人見知りで緊張しいなものだから、相当がんばらなきゃと思うけど…。1年かけてなんとかなればいいな。そうそう、実は今年の春、ドイツに短期留学することが決まったので、その機会もうまく活かして、なんとかして「話が上手な人」になりたい…!
目指せ、脱・人見知り。

 あとは、毎年そうだけど、たくさんの本を読んで、たくさんのおいしいものを食べる年にしたい。お酒についても詳しくなりたい。去年よりもっといろんなことを知りたい。いろんな人とも出会いたい。 
 ブログの更新は週1、2回を目指して、今まで通りゆるくやっていきます。ではでは、皆さまの2018年が楽しく愉快なものとなるように願っております。私も全力で楽しむぞ!

 ちなみに新年の読書初めは、小説は北村薫『空飛ぶ馬』、漫画は糸井のぞ『わたしは真夜中』。北村薫の「円紫さんシリーズ」、ずっと前から読みたくてやっと読めたから嬉しい。色々な意味で読んでて楽しいし心が洗われる。『わたしは真夜中』はなんとなく買って読んだけど、主人公のひねくれ具合と生きづらさが次第に変わっていく過程が面白かった。

空飛ぶ馬 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

空飛ぶ馬 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

 
わたしは真夜中 (1) (バーズコミックス スピカコレクション)

わたしは真夜中 (1) (バーズコミックス スピカコレクション)

 

 

今週のお題「2018年の抱負」

年末なので、「2017年の5冊」を選ぶ

 ちょっとまだ信じられないのだけど、あと2日で2017年が終わってしまう!早い…あっという間の1年だった。そんな中でも本はいろいろと読んだ。面白かった本、読んでよかった本はもちろんたくさんあるので、その中から特に心に残ったものを、コンパクトに5冊にまとめてみる。ちなみに小説だけになりました。
 2017年前半のまとめはこちら。今回は年間のまとめなので、この中とかぶっているものもちらほら。

yomunerutaberu.hatenablog.com

恩田陸蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

 

 今年の読書始はこの本だった。前の記事にも書いたので詳しくはそちらで。きらきらしていて、ちょっと眩しすぎるけれど、とにかく美しい物語。音楽に愛され、音楽を愛する者たちの姿が、あたたかな目線で描かれている。「天才」として突き放すわけでもなく、「変人」と片付けてしまうわけでもなく、登場人物がひとりひとりの人間として魅力的だったのが印象に残っている。
 「文字で書かれた音楽の美しさ」を味わえる1冊でもある。

村田沙耶香『タダイマトビラ』

タダイマトビラ

タダイマトビラ

 

 この本についても、前の記事で感想を書いた。村田沙耶香は大好きな作家の一人だから、ほとんどの作品を読んだけど、私はこの『タダイマトビラ』が一番好きだ。好き…っていうとちょっと違うかもしれない。好き…ではない…むしろ読んでいると苦しいけど、読み終わった後には不思議と救われたような気持ちになる。
 実は、この作品に対する「好き…ではない…」という感情は、村田沙耶香という作家そのものに対しても同じだ。好き…ではない…んだけど…みたいな、一筋縄ではいかない (ひねくれた?) 愛情。「好きな作家は?」と聞かれたときに名前は挙げないけど、「これから死ぬまで、一人の作家の作品しか読めません」と言われたら間違いなく村田沙耶香を選ぶと思う。

多和田葉子『百年の散歩』

百年の散歩

百年の散歩

 

 なぜかエッセイだと思い込んでいたけど、読んでみたら小説だった。
 ストーリーを、しっかり細かく説明するのは難しい。語り手である「わたし」が「あの人」を待ちながら、ベルリンの街をさまよい歩く。たったこれだけの説明で済んでしまう。ストーリーには、この本の面白さはない。じゃあ、何が面白いのかっていうと、作者の独特の言葉遣い、言葉遊び、連想ゲーム、みたいなもの。語り手の思考はふわふわとさまよい、街歩きの中で、現実と「わたし」の空想が混ざり合い、境界線が曖昧になっていく。現実と夢の間に立っているみたいな、起きているのか眠っているのかわからないみたいな、なんともいえない雰囲気が好き。好きな人はむっちゃ好きな文体だと思う。

ポール・ギャリコ『ジェニィ』

ジェニィ (新潮文庫)

ジェニィ (新潮文庫)

 

yomunerutaberu.hatenablog.com

 全世界の猫好き、読んで。以上。

夏川草介『本を守ろうとする猫の話』

本を守ろうとする猫の話

本を守ろうとする猫の話

 

yomunerutaberu.hatenablog.com

 ストーリーとか文体とかが好きってわけじゃなく、テーマが自分にとってものすごく重いもので、そこにズシンと。作中で描かれるのはあまりにも綺麗な世界すぎて、眩しいやら恨めしいやら。でも、どんなに現実が厳しくたって、ほんとはこの「綺麗な世界」を理想として、それを自分の根っこにして生きていくのが正解なんだと思う。その結果として、世界がどんな風になろうとも。

 今年もたくさん本が読めて、しあわせでした。来年ももっとたくさんの本に出会えますように。
 年末年始には、ずっと読みたかった北村薫「円紫さんと私シリーズ」を一気読みすると決めている。楽しい2017年の終わり&2018年の始まりになりそうだ。皆さまも、読書をしたりおいしいものを食べたりゴロゴロしたり……とにかく、楽しい年末年始をお過ごしくださいませ!

本と芸術について考えたこと

「本は、誰のために、どう在るべきなのか?」
 “本”という部分は、“音楽”に変えてもいいし、“絵画”に変えてもいい。“映画”でも“伝統芸能”でもいい。この問いは、あらゆる芸術にかかわる人にとっての永遠の課題だ。『本を守ろうとする猫の話』で描かれているのも、この問いと、それに対する答えである。直接問われているのは「人は本とどう向き合うべきか?」だけど、それでもやっぱり、根底にあるものは同じだ。
 この難しい問いに対し、主人公は物語の終盤で答えを出している。その答えは、とても綺麗で美しい。だけど、ただそれだけだ。決して、現実に生きる私たちへの答えにはなってはくれない。

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 物語は、主人公・夏木林太郎が祖父を亡くしたことからはじまる。舞台は街の片隅にある小さな古書店・夏木書店――林太郎の祖父が営んでいた古書店である。祖父がもういないという事実を前に、夏木書店で物思いにふける林太郎。そんな彼の前に、突然人語をしゃべるトラネコが現れる。
 突然現れたトラネコは、これまた突然、林太郎に「本を脅かす者たちから本を救い出してほしい」という。どういうことなのか理解する余裕も、選択の余地もないまま、林太郎は“迷宮”から本を救い出す旅に出ることになる――
 ちなみに、本を救い出す旅なんていうと大げさだけど、この物語はいわゆる冒険譚ではない。迷宮はぜんぶで3つあり、それぞれに主がいる。林太郎に託されたのは、対話を通して彼らを納得させ、そして本を解放させることだ。

 個人的には、第2、第3の迷宮での対話がアツかった。迷宮の主たちが目指しているものを間違ってるとは言いきれない、むしろ信念としては正しい、というところがなんとも…。
 第2の迷宮の主は「切りきざむ者」。彼が目指しているのは、あらゆる難解な傑作を、“切りきざんで”単純にして、誰にでも読めるお手軽な作品に作り変えること。第3の迷宮の主は「売りさばく者」で、たとえ価値がなくても、社会が求める本をたくさん作り、たくさん売ることをしている。表面的にはそういうことだ。だけど、この2人に共通することが1つある。それはなにか?それぞれの主張を聞けば、すぐにわかる。

読まれない物語は消えていく。僕はそれを惜しんで生きながらえさせるために、少しだけ手をくわえる。[中略] …そうすれば、失われていく物語がその足跡を現代にとどめることができるとともに、短い時間で手軽に傑作に触れたいと願う人々の期待にも応えることができる。(第二の迷宮「切りきざむ者」p. 88)

今の時代はね、難解な本は、難解であるというだけで、もはや書としての価値を失うのだよ。誰もが、気軽に、愉快に、流行りのクリスマスソングをまとめてダウンロードするかのように傑作を読みたがる。楽しく、速く、たくさんの読書を。そういう時代の要請に答えなければ、傑作は生き残っていくことはできない。(第二の迷宮「切りきざむ者」p.89-90)

真理も倫理も哲理も、誰も興味がないんです。みんな生きることにくたびれていて、ただただ刺激と癒しだけを求めているんです。そんな社会で本が生き残るためには、本そのものが姿を変えていくしかないんです。敢えて言いましょう。売れることがすべてなのだと。どんな傑作でも、売れなければ消えるんですよ。(第三の迷宮「売りさばく者」p.142)

 そう、彼らは「本を生き残らせたい」と心から望んでいる。しかも、とても切実に。それだからこそ、本の形を歪めてしまうことまでした。行動は間違っているし、許されないことだ。それは確かだ。だけど……彼らに対して林太郎が出した答えに、私は納得することができない。
 林太郎が作中で何度も主張しているとおり、夏木書店は、特別な場所だ。ベストセラーも流行の本もない。時代を超えてきた名作だけが並ぶ。林太郎の祖父の特別なこだわりが込められた、特別な場所だ。かけがえのない場所だ。だけどきっと、そこに足を運んだのは、常連だけ…すでに本の価値を知っている人たちだけだっただろう。それはそれでかまわない。それこそが夏木書店なのだから。でも、その姿は理想ではあるけれど、正解ではない。つまり、すべての人に求めるべき姿勢ではない。

 限られた人たちのためだけの芸術は、ゆっくりと死んでいく。それが、今までいろんな芸術に触れて、いろんな人に出会って、いろんなことを学ばせてもらった私なりの答えだ。だから、迷宮の主たちに強く共感してしまった。そして反面、林太郎の主張に少しの反感を抱いてしまった。彼の祖父の姿勢は、たしかに気高い。だけど、「わかる人にだけわかってもらえればいい」って、ある意味とても傲慢なのでは?

 だって、人びとに、本を…芸術を愛する心がないわけではない。ただ、そのためのきっかけがないだけだ。でも、誰もが受け入れらるように、作品そのものの形を歪めてしまうのは間違っている。だとすれば、目指すべきは、価値のある本を切り刻むことでもなく、価値のない本を売りさばくことでもない。でも、本と一緒に心中をすることでもない。価値のある本が売れる世界を育むことなのではないかと思う。それはきっと、長い長い時間がかかる、いちばん険しい道のりだ。だけど、価値あるものを生かすためのいちばんの近道でもあるはず。

 話は少し変わるけど――そう考えると、「刀剣乱舞」とか「文豪とアルケミスト」とかって、想像以上に伝統や芸術の復興に貢献しているのかもしれない。現に、刀剣も文学も盛り上がりを見せてますものね。もちろん、一時的な現象だろうし、ほとんどがミーハー的な関心で動いているんだろう、とは思う。だけど、その中のほんの一握りだとしても、ほんとうにそれを愛するようになってくれる人が出てくるかもしれない。かなり少ない数だとしても、ゼロではないはずだ。各文学館が「文アルコラボ」をしているのも頷ける。きっかけは何でもいいはずなのだ。芸術がどんなに強い力を持っていても、それに気づく人がいなければ意味はないのだから。

本を守ろうとする猫の話

本を守ろうとする猫の話